今期(2024年9月〜2026年9月)の研究委員会では、2年間の企画全体をスタートさせるにあたって、「道徳と価値」という共通テーマを掲げました。道徳や価値がかつての社会(社会学)では社会を統合する紐帯としてとらえられていたのに対して、現代では分断や対立を生む側面がむしろ強くなっており、その現代的な課題について検討する重要性が増しているのではないか。この問題関心から、キックオフ企画となる2025年3月の研究例会では、「道徳・価値をめぐる現代的課題」というタイトルのもと、「AIをめぐる倫理」を軸として活発な議論が行われました。(https://sst-j.com/?p=1805 をご参照ください。)
9月の第20回大会シンポジウムでは、今期スタート時の問題意識のひとつである、現代における道徳・価値の「分断」を問いの中心に据えることとし、このテーマを投げかけたときに刺激的な報告をいただけると考える3人の方々に報告をお願いしました。現代社会では、階級、ジェンダー、世代、エスニシティ、宗教、政治、科学、テクノロジーなどを媒介として多様化した道徳や価値がますます複雑に絡み合って種々の分断や対立が生み出されているように見えます。「分断」といわれているもの、そう見えるものがじっさいにあるのかどうか、もしあるとしたらそれはいかなる要因によるものであり、どのように変容しているのか、など、本シンポジウムでは「道徳・価値」という視点を通して、この現象に含まれる両義性や複数の位相をさまざまに検討できればと考えています。また同時に「道徳・価値」という学としての成立以来、社会学の主要論点の一つであり続けた問題を「分断」の視点から問い返すことで、その視点がもつ現代的意義や理論的可能性について議論を深めていければと思っています。
シンポジウムの概要と報告者プロフィールは次のとおりです(以下、敬称略)。報告タイトルはいずれも仮題で、7月下旬の打ち合わせ以降に、報告タイトルと要旨を改めてお知らせいたします。多くのみなさまのご参加をお待ちしております。
第20回大会シンポジウム「道徳・価値の「分断」を問う」
日時:2025年9月7日(日)14:00~17:00
会場:富山大学五福キャンパス人文学部校舎 第4講義室
*アクセスマップ https://www.u-toyama.ac.jp/access/campus-access/gofuku/#gofuku06
報告:
村井重樹(島根県立大学)「道徳・価値・境界――象徴的境界の複層性と「分断」」
橋本紘樹(九州大学、非会員)「後期近代の始まりと諸価値の分裂――ハーバーマスとゾントハイマーの論争を読む」
河合恭平(大正大学)「アーレントの社会学批判と悪の理解――道徳社会学における意義と「分断」の再考」
討論者:
澤井敦(慶應義塾大学)、呉先珍(東京大学)
司会:
伊藤美登里(大妻女子大学)、奥村隆(関西学院大学)
報告者プロフィール:
村井重樹(むらい・しげき)
島根県立大学地域政策学部教授。専門は理論社会学・文化社会学。著書に『ブルデュー社会学で読み解く現代文化』(編著、晃洋書房、2024年)、論文に「文化資本概念の現代的展開――新興文化資本をめぐって」(『慶応義塾大学大学院社会学研究科紀要』第93号、2022年)、訳書に『フーディー――グルメフードスケープにおける民主主義と卓越化』(共訳、2020年、青弓社)などがある。
橋本紘樹(はしもと・ひろき)
九州大学大学院言語文化研究院助教。専門は、47年グループやフランクフルト学派を中心とする現代ドイツ文学・思想。著作に『戦後ドイツと知識人――アドルノ、ハーバーマス、エンツェンスベルガー』人文書院 2025年。主要論文に「アドルノとレクヴィッツ――フランクフルト学派の思わぬ遺産?」岩波書店『思想』1208号(2024年)、「アドルノにおけるハイネ講演、あるいは文化批判と社会」日本独文学会機関誌『ドイツ文学』第156号など。翻訳に、アンドレアス・レクヴィッツ『幻想の終わりに――後期近代の政治・経済・文化』人文書院 2023年(共訳)、テオドール・アドルノ『新たな極右主義の諸側面』堀之内出版 2020年(単訳)など。
河合恭平(かわい・きょうへい)
大正大学人間学部人間科学科准教授。専門は社会学理論・社会学説史・社会思想史。著書に『アーレントとテクノロジーの問い』(分担執筆、法政大学出版局、2025年)、『アーレント読本』(分担執筆、法政大学出版局、2020年)、『モビリティーズのまなざし——ジョン・アーリの思想と実践』(分担執筆、丸善出版、2020年)、論文に「H・アーレントの社会学史上の意義——社会学批判と理念型としての「活動」概念」(『東京女子大学社会学年報』第7号、2019年)など。
報告要旨:
道徳・価値・境界
――象徴的境界の複層性と「分断」――
村井重樹(島根県立大学)
本報告は、ピエール・ブルデューとミシェル・ラモンの象徴的境界に関する議論を手がかりとしながら、人びとが相互に設けるさまざまな境界と分断の様相について考察することを目的とする。
ブルデューは、『ディスタンクシオン』のなかで、人びとのあいだには趣味やハビトゥスを介して共感と反感が生み出されると指摘している。これは、ハビトゥスが類似する者を互いに結合させると同時に相違する者を互いに分離させることを意味する。自他あるいは集団間はそれを通じて分割・区分され、そこに象徴的な境界線が引かれることになる。ブルデューは、これを経済資本/文化資本の配分構造に基づく階級/階級内集団間の境界として捉え、それらをめぐる人びとの象徴闘争を描き出した。
ラモンは、『金銭・道徳・マナー(Money, Morals, Manners)』において、こうしたブルデューの議論を象徴的境界論として評価する一方、社会経済的境界と文化的境界を過度に重視しているとして批判を展開してもいる。その際、人びとが相互に境界を引く際に用いる価値基準としてラモンがとりわけ重大な意義を認めるのが道徳性である。ラモンは、アメリカとフランスの比較研究によって、それぞれの社会で社会経済的境界、文化的境界、道徳的境界が人びとによってどのように引かれ、どの価値基準が重視されているかを明らかにし、ブルデューが軽視した道徳的境界の重要性を浮き彫りにした。
本報告では、以上のようなブルデューからラモンへと至る象徴的境界論の展開を踏まえ、そこで提示される境界の複層性を視野に入れつつ、主として道徳性をめぐる人びとの境界ワークとそれを媒介とした分断の様相について考察するとともに、その理論的意義や現代的課題について検討する。
後期近代の始まりと諸価値の分裂
――ハーバーマスとゾントハイマーの論争を読む――
橋本紘樹(九州大学)
社会のあらゆる領域で危機が顕在化している今日、その原因を体系的かつ歴史的に探求する理論の重要性が高まっている。なかでも、ドイツを代表する社会学者アンドレアス・レクヴィッツの『独自性の社会――近代の構造転換』(2017)および『幻想の終わりに――後期近代の政治・経済・文化』(2019)は、大きな注目を集めた。レクヴィッツによれば、近代を構成するのは、「合理化」を推し進め、一般性・普遍妥当性・標準化を生み出す「一般的なものの社会論理」と、文化化の動因となり、独自性・唯一性・新しさを追求する「特別なものの社会論理」である。「古典的近代」(市民社会と工業社会)では前者が主流であったが、1970/80年から始まる「後期近代」では、後者が優勢となった。しかしながら、「特別なもの」が社会の主導原理となるなかで、現代ではその問題点が「一般性の危機」という形で露呈している。
かかる議論を踏まえると、「後期近代」への転換期である1970年代の西ドイツが、非常に興味深い分析対象として浮かび上がってくる。西ドイツでは、1960年代に一連の抗議運動が芽生え、社会の自由化の流れが加速する一方で、過激派によるテロリズムやオイルショックを通じた経済停滞もあり、いわゆる「潮流の転換(Tendenzwende)」が起こると、現実主義的かつ保守的な雰囲気が社会を包むようになる。こうしたなか、リベラルな社会民主主義者の立場から左派ラディカリズムを痛烈に批判した政治学者クルト・ゾントハイマーと、革命志向の学生運動とは距離を取っていたにもかかわらず、テロリズムに理論的背景を提供したとして強い非難にさらされていたユルゲン・ハーバーマスとの間で、相互批判が展開される。本報告では、これまで両者の伝記的研究(Felsch, 2024; Müller-Doohm, 2014; Loewenstein, 2013)で簡単に言及される程度であったこの論争を、「一般的なもの」と「特別なもの」の相剋という観点から改めて読み解いていきたい。
アーレントの社会学批判と悪の理解
――道徳社会学における意義と「分断」の再考――
河合恭平(大正大学)
道徳社会学の代表的論者であるG・アーベントは、道徳哲学の成果から、価値自由が前提としてきた文化間における道徳の相違を前提とする記述的相対主義の誤りなど、その土台が揺らいでいることを論じている。また、彼はZ・バウマンらの議論を参照し、ホロコーストなど多くの社会学者がほぼ自明に悪と想定しうるものをどのように扱うべきか、態度を決めかねている。
そこで本報告では、分断の最たる事例である全体主義論やアイヒマン裁判にあたって、社会学における道徳の扱いに対し問題を提起したH・アーレントを取り上げる。かかる彼女の社会学批判を批判的に読み解きながら、社会学における道徳・価値の扱いの問題点を取り出し、その意義を考察することを目的とする。
アーレントの価値自由および理念型批判に欠陥があることは否めない。しかし、アイヒマンの行動が、M・ヴェーバーらが論じたような官僚制の理念型にほとんど当てはまるために、彼を単なる歯車とみなし、その道徳と責任を捉えづらくしてしまったことへのアーレントの批判は重要である。また、R・K・マートンの機能分析を用いると、アイヒマンの行動はナチスの目標(ユダヤ人の根絶)にとって順機能と言える。これは分析的には正しいが、価値・道徳的には違和感もあり、上記のアーベントの問題提起にも重なる。だからこそ、これに対し、アーレントは思考・無思考こそが道徳の尺度になりうると考えたのである。 他方、公共性の議論においては、アーレントは意外にも道徳を回避しようとする傾向にある。フランス革命におけるロベスピエールの「徳のテロル」を事例に、彼女は絶対的な善や共感を求める道徳的態度こそが、暴力と結びつくものと認識しているためである。アーレントのかかる認識に偏りがないわけではない。しかし、以上の議論より、集団間における善のあいだの分断という示唆をえ、なおも社会学的に道徳を論じることのあり方を考察しうる。