大会・研究例会

第20回大会 一般報告要旨集

【一般報告1】第1日(9月6日)12:30~14:30 人文学部校舎 第1講義室

    司会:岡崎宏樹(神戸学院大学)

社会学理論の外延――類型論再訪
德宮俊貴(大阪産業大学)
 社会学理論という言葉で何を指すかは社会学者のあいだでも一義的ではなく,同じ理論という言葉を使っているのに(だからこそ)話がかみ合わず不毛なディスカッションに終始することもそれほど稀ではないのが現状だ。とはいえ,理論に多種多様なタイプが含まれるのは当然のことで,社会学理論とは何かと大上段に問うのではなく,その分類の共通理解ができているかが問題になるのである。本報告では,富永健一,髙坂健次,舩橋晴俊,友枝敏雄らによる社会学理論の類型論をふりかえり,ミクロ(行為理論)とマクロ(社会理論),一般理論と中範囲の理論,方法論や規範理論といった分類を整理しなおすことで,社会学理論の外延をめぐる共通認識の形成を試みる。独自の論点の提起よりもオーソドックスな語用の再確認を本報告は目的としており,新規性に欠けるとの指摘は甘受せざるをえないが,討議の前提となる知識をいまいちど確かめておくのは意義ぶかいことだと考えられる。

圏論社会学の基礎に関するいくつかの仮定について
――1980年代の日本の理論社会学を例に――
大山智徳(放送大学)
 本報告の目的は圏論社会学が理論社会学の共通言語となりうる可能性を示唆することにある。方法として、まず、デリダの脱構築を圏論の随伴を構文論とする哲学的意味論として定式化する。次に、脱構築モデルとしての構文論的色彩の強い社会モデル(差延)を示す。その後、社会学的意味論(散種)として1980年代の日本の独創的な理論社会学である言語ゲーム論、自己組織性、第三者の審級、フーコー的権力分析を脱構築(差延+散種)していく。最後に、これらの理論構築の契機となった橋爪大三郎・志田基与師・恒松直幸(1984)の「危機に立つ構造-機能理論―わが国における展開と問題点」を脱構築する。結果、それぞれ、双対なルール、双対な意味、双対な身体、双対に真理と主体、双対な規範を創出する社会理論として脱構築される。最後に、「危機論文」を脱構築することで圏論的な構造機能主義のシンプルな定義を示す。これにより、目的は達成される。

デュルケムの職能団体論における議会の位置づけ
流王貴義(東京女子大学)
 本報告は,デュルケムの職能団体論における議会の理論的な位置づけを明らかにすることを目的とする.デュルケムの職能団体論の理論的な意義については,経済活動の実効的な規整の基盤としての職能団体の重要性,個々人の自由を保障すべく国家と職能団体との釣り合いを制度的に構築する重要性といった論点が提起されてきた.しかし,再建後の職能団体に対してデュルケムは,議会制の基礎となる選挙人団の構成枠組みとしての役割も求めている.この職能議会という提言はデュルケムの近代社会論においていかなる理論的意義を持っているのか.本報告では,19世紀末のフランスにおける議会制や選挙制度をめぐる社会的・思想史的なコンテクストを踏まえつつ,『社会学講義』で展開されたデュルケムの議会制論の分析を通じ,デュルケムの職能団体論において,適切な規整を形成し,規整の意義を的確に理解して服従できる仕組みがどのような形で理論的に定式化されているのかを,明らかにする.

ジャン・ボードリヤールの死の社会学
藤井亮佑(関西学院大学)
 本報告は、ボードリヤールが死をめぐっていかに学説を展開していたかを整理することで、ボードリヤールの死の社会学を構想する試みである。方法として、『象徴交換と死』(1976)以降の著作を中心に、死に関する議論をまとめる。結果として、ボードリヤールは、死を生物学的・肉体的な現象として捉えず、死を象徴交換において生じる「価値の消滅」という解釈を展開していた。それゆえに、ボードリヤールにすれば不可逆的な科学的・生物学的な死は、近代特有の死の概念に過ぎす、近代社会における科学化や合理化から生じる不死化への努力にも、いたるところで可逆的に死を想起させるラディカルな誘惑が潜むという。考察では、死の社会学における死のポルノグラフィーをめぐる議論の再考や、現代社会における死と不死の対立がどのような問題を生じさせるかを検討する。

【一般報告2】第1日(9月6日)12:30~14:30 人文学部校舎 第2講義室  

司会:濱西栄司(ノートルダム清心女子大学)

ミシェル・アンリの身体論における「運動-抵抗」図式の理論的射程
長谷川昌美(立教大学大学院)
 本報告の目的は、ミシェル・アンリの身体論の核をなす「運動(mouvement)」と「抵抗(résistance)」両概念の関係を整理し、その理論的意味を検討することにある。アンリは、主著の一つである『身体の哲学と現象学』において、デカルト的心身二元論を乗り越える人間像を提示し、個人の身体の存在をその「運動」に求め、「運動」に必然的にともなうものとして「抵抗」概念を示している。これまでの社会学的身体論は、「運動する身体」に着目しつつ、その性格を自他や主客の融合という特異な経験の契機として読み取ってきた。それにたいして本報告は、アンリの論じる「運動-抵抗」の連関に着目することによって、「運動する身体」の日常的な経験の位相を捉え直すための理論的視座を提示することを試みる。この「運動-抵抗」図式から、①境界を顕在化させる形で個人と世界の関係を描き出し、②「有機的身体」という新たな身体モデルを提起することが可能となる。

「都市的なもの」の批評的展開?
――ルフェーヴルと『ユートピー』誌をめぐって――
山本千寛(福山市立大学)
 本報告では、「都市的なもの」をめぐるアンリ・ルフェーヴルの理論的視座や方法論的態度が、彼の思想に共鳴した教え子らの創刊した『ユートピー』誌において、どこまで継承され、いかなる課題に直面したのかを問う。
 同誌は、ルフェーヴルの助手や教え子であった社会学者や都市計画家、建築家などが、彼の別荘で1967年に創刊した学際的な批評誌である。ごく限られた寄稿を除いてルフェーヴル自身は同誌の外部に留まっていたものの、副題に「都市的なものの社会学」を掲げた創刊号以来、両者はアーバニズムや消費社会をめぐる諸課題と、既存の秩序への批判としての「ユートピア」を主要なテーマとして共有している。
 本報告では、社会学者と建築家らが協働して記名記事を多く掲載していた初期(1967年から1969年)の第1号~第3号におもな焦点をあて、同誌におけるルフェーヴルへの共鳴や批判、とりわけ「都市的なもの」の批評的展開について検討する。

「まだら状の大地」としての廃棄物処分地
――都市産廃ロジスティクスに基づく操作的景観の諸相――
馬渡玲欧(名古屋市立大学)
 香川県豊島の産業廃棄物不法投棄事件は、処分地の砂利や土砂を採掘し終えた後の土地に対して、有害な産業廃棄物処理事業計画が立てられたことに端を発する。本報告は、この産廃不法投棄事件を、「まだら状の大地」(北川 2024: 第6章)の観点から解釈する試みである。この観点は、ニール・ブレナー、クリスチャン・シュミットが提示する不均等発展と惑星都市化をめぐる思想・理論を踏まえている。廃棄物処分地の「操作的景観」(オペレーショナル・ランドスケープ)がいかに形成されてきたか、本報告では惑星都市化に関する諸概念・理論を整理しつつ検討する。特に、シュレッダーダストと汚染土壌を含む都市産廃の構成、瀬戸大橋開通の前後で運搬経路が大型フェリーによるものに変化した産廃ロジスティクス、産廃処理事業によってもたらされる「まだら状」の土地などの各論点について論じる。
(参考)北川眞也,2024,『アンチ・ジオポリティクス――資本と国家に抗う移動の地理学』青土社.

自然主義の社会
――加速理論における状況的アイデンティティ/状況的政治の意義――
染田結輝(東京大学大学院)
 本報告では、H.ローザが主著『加速』で批判する状況的アイデンティティと状況的政治を、これまでほぼ顧みられていない彼の初の単著『アイデンティティと文化的実践』を踏まえて検討する。この批判に関しては、特段新規性がなく既存研究の寄せ集めであるとの指摘がある(伊藤 2016)。しかし、『アイデンティティと文化的実践』の主題であるC.テイラーの哲学の参照を通じて、この批判のもつ深い意義が判明する。
 批判の背景には、テイラーのいう近代的自己の2つの源泉=自然主義とロマン主義から展開されるアイデンティティ理論と政治理論がある。状況的アイデンティティと状況的政治は、支配的な自然主義の文化と、それが構成する「加速」を特徴とする社会構造の下で生じる典型的な社会病理である。アイデンティティ危機・うつ病・政治の法化・経済的規制緩和・倫理的私事化などによって、近代の理想である自律と真正性は達成不可能となる。これに対抗すべく、ローザはロマン主義と結びつく「共鳴」に解放の可能性を求めるのである。

【一般報告3】第1日(9月6日)12:30~14:30 人文学部校舎 第4講義室

                司会:安達智史(関西学院大学)

statelessとdisplacement
――難民保護の理論的再検討――
山岡健次郎(群馬県立女子大学)
 第二次世界大戦後に確立した難民を保護するための国際的なレジームでは、難民と国家との間の法的な関係性を回復させることで、難民をもう一度国民国家体制へと結びつけ直すことが目指された。すなわち、難民が陥っているstatelessの解消こそが、難民問題の解決であると観念されてきたと言える。しかし、現実に発生しているグローバルな難民移動には、statelessとは全く別の位相に、displacementという事態が含まれている。人は場所との関係性が断ち切られるとき、displacementに見舞われる。それは、国家との法的な関係性とは全く別の位相で発生する損失である。にもかかわらず、難民を保護する国際的なレジームは、statelessの解消によってdisplacementも同時に解消するものと短絡している。本報告では、政治思想家のハンナ・アーレントの初期の論稿を読み解くことで、statelessとdisplacementを慎重に弁別し、それによって、現在グローバルな課題として認識されている「難民問題」そのものを理論的に脱構築することを目指す。

境界領域の多様な生を捉えるconviviality概念の可能性
――コスモポリタニズム論との比較を通じて――
永島郁哉(島根大学)
 古典的な課題であるコスモポリタニズム論は21世紀の社会秩序の構想として1990年代以降世界的な再評価が進んでいる。一方で、U. Beckの研究をはじめ「新しいコスモポリタニズム」と呼ばれる研究はヨーロッパ中心主義的と批判されており、普遍的な社会理論としての限界が露呈しつつある。これに対し近年、新しいコスモポリタニズムの議論を受容しながらも、その限界を克服する概念としてconviviality概念が構想されている。この概念は、欧州における移民・難民の社会統合政策が同化主義の様相を呈するという反省から、ヨーロッパという一元的な価値への統合ではなく、あくまでローカルな場で生じる、住民と越境者の相互作用に注目している。本報告ではconviviality概念が新しいコスモポリタニズム研究との間にいかなる共通点や相違点を持つのかを明らかにする。その際本報告は、conviviality概念が単に新しいコスモポリタニズムを否定するのではなく、むしろそれと相補的な役割を担おうとしていることに着目する。

デュボイスの「才能ある十分の一」概念と社会変革に向けた実践
本田量久(東海大学)
 W.E.B.デュボイスは、アメリカ人種差別の構造を問うとともに、その変革を訴えた活動家であった。当時の黒人指導者B.T.ワシントンは、タスキーギ職業訓練校で黒人大衆の経済的自立を目指し、当初はデュボイスもその教育実践を評価したが、『黒人のたましい』(1903年)では、人種平等や参政権をともなわない基礎的な職業訓練は、白人中心の労働市場における黒人の従属的な地位を固定化すると批判した。他方、デュボイスは、高等教育機関で学び、高い教養をもった「才能ある十分の一」が指導的役割を担うことが黒人全体の地位向上につながると認識し、公民権団体NAACP創設(1909年)に関わった。またロンドンで開催された汎アフリカ会議(1900年)の主要メンバーとして講演し「20世紀の問題は、カラーラインの問題である」と訴え、それ以降も海外の黒人指導者や社会主義者とともに汎アフリカ主義運動を展開した。本報告では、社会変革の力学とその条件に関するデュボイスの実践について論ずる。

ミメーシスと共同体
――差異を捉えるまなざしと暴力性の克服について――
佐藤梓(明治大学大学院)
 本報告の目的は、ミメーシス(模倣)の概念を用いて、共同体における差異の個別的共存と、固有で自由な生が実現する条件について検討するものである。ミメーシスが孕む暴力性の議論を皮切りに、マックス・ホルクハイマーとテオドール・アドルノの共著である『啓蒙の弁証法』におけるミメーシス概念とルネ・ジラールのミメーシス解釈を比較、架橋し、共同体内部での差異をめぐる対立を捉える。この際、ガブリエル・タルドの模倣の理論に依拠して模倣の欲求段階を整理し、社会の成り立ちと進歩の過程をミメーシス的な相互作用の産物として読み解くことを試みる。これにより、生存のための模倣が暴力に転ずるメカニズムを描写し明らかにする。同時に、ミメーシスを同一化の概念としてではなく差異を感知する能力として仮定し、現代の共同体が抱える諸問題、特に多様性の保障とこれを阻む同一化の圧力に抗する可能性を拓く概念として再定義する。

【一般報告4】第2日(9月7日)9:30~12:00 人文学部校舎 第1講義室

                 司会:堀田裕子(摂南大学)

多元的現実と対面性
――表情をかわすことの社会学――
石橋潔(久留米大学)
 現代社会は複数の現実が並存する多元的社会であり、人は絶えず日常的にそれらを行き来している。この現実の移行を促し、切り替えていく強力な要素が対面性(face to face)である。対面には、特定の現実へ瞬時に引き戻す強い力がある。この性質は、朝礼、キックオフミーティングの顔合わせ、試合前の握手やステアダウン(睨みあい)、裁判の宣誓などに利用されている。災害救助や救急で意識混濁がある患者の意識確認も対面でおこなわれるのはこの性質を利用している。この対面は単に形式的儀礼ではなく、相手の表情やしぐさに反応する「感情の共振性」によって偶発性を持ち、その場その時の間主観的世界を作る。機能分化した社会システムの併存を生きる私たちは日常的にこの現実を切り替えていく必要があるが、この対面の切り替えを失うと、ひとつの現実に閉じ込められてしまうことがおきる。

ベルクソニズムにおける間主観性
――A.シュッツのベルクソニズムに対して――
銭廣承平(関西大学)
 H.ベルクソンの哲学は、いくつかの論者を介して社会学の理論へと影響を与えてきたが、そのもっとも有名なものの一つはA.シュッツの現象学的社会学であろう。シュッツは、ウェーバーの理解社会学を、当初はベルクソニズムによってその「理解」「意味」を基礎づけようとしていたが、その試みをベルクソニズム単体で成し遂げることは叶わず、E.フッサールの現象学の導入によって、とりわけ「間主観性」についての理論の研磨を行ったことはよく知られている。似たような事情が、フランス現代思想においても起こっており、ベルクソニズムはフランスの現象学の発展のための土台を創ったと同時に、現象学にかき消されてしまい、G.ドゥルーズを待つまでしばし忘却されていたことが知られている。そこで本稿では、再評価されたベルクソニズムの視点でもって、シュッツが見限ったベルクソニズムではない、別の「間主観性」の可能性を見出すことを目的とする。特に、近年「減算」と「縮約」として理解される視点を以て、ベルクソニズムにおける意識の閉鎖性と開放性の双方の存在論的条件に言及することになる。

『現実の社会的構築』と『現実のコミュニケーション的構築』の人間学的基礎を比較する
高艸賢(千葉大学)
 フーベルト・クノーブラオホの『現実のコミュニケーション的構築』(独語版2017年、英語版2020年)は、ピーター・L・バーガーとトーマス・ルックマンの『現実の社会的構築』からの理論的跳躍を企図して書かれている。しかし、クノーブラオホが提唱する「三項関係」モデルがバーガーとルックマンの「外化-客観化-内在化」モデルの理論的地平をどの程度超え出るものであるのかは、依然として議論の余地がある。本報告では、両著作の人間学的基礎を比較検討することで、外化-客観化-内在化モデルに対する三項関係モデルの新しさを示す。バーガーとルックマンの外化-客観化-内在化モデルにおける人間学的基礎は、ゲーレンとプレスナー(およびシェーラー)の哲学的人間学の「人間ー環境」図式であり、そこでは人間は環境世界にプラグマティックに対処するものとして捉えられている。ここにおいて他者は、私(自己)にとっての「解決すべき問題」の一部をなす、不透明で異他的で予測不可能な存在である。これに対しクノーブラオホの三項関係モデルが依拠するのは、マイケル・トマセロによる乳幼児研究および霊長類研究の知見である。人間は他者を志向性・向社会性・利他性を備えた存在として想定する傾向があるとするトマセロの議論では、初めから他者は私(自己)に何かを教えてくれる存在として現れている。トマセロ=クノーブラオホの三項関係モデルの新しさは、他者の志向性に関する自然的理解(das natürliche Verstehen)が他者に対する疑いに先行しているのであって、その逆ではない、ということを示した点にある。

ライフヒストリー研究における個人の内面を理解するための手立てとは何か?
――社会的世界論を通して考える――
篠原真史(佛教大学大学院)
 本論は、ライフヒストリー研究において、個人の内面を適切に理解していくためにはどのような手立てが考えられるのかを課題とするものである。このため、T.シブタニの「パースペクティブとしての準拠集団」をもとに、シカゴ学派社会学の方法論の一つである社会的世界論が、定義が簡潔で、個人の課題から集団的な言説の生成まで広範な事例に対処可能な内容であるか、調査協力者に対する禍害、孤立などの課題に対処できる内容であるかという視点で検討してきた。その結果、コミュニケーションの共有という側面に注目すると、社会的世界への参与に重要な他者の存在が必要であること、社会的世界の規模によってはマスターナラティブのような社会的影響力のある言説が発せられることなどを確認し、調査に臨む必要があることを明らかにした。一方で、災害や著しい禍害などの体験を調査協力者が語ることが困難な場合、調査者は調査協力者との人間関係の形成に努め、一つの社会的世界を構築していくことも重要であることを確認した。調査協力者のもつ意味世界を理解することは、ライフヒストリー研究において不可欠な要素と考えられる。

ELSIを適切に実施するには「実験臨床社会学」が必要である
――違背実験からの検討――
樫田美雄(摂南大学)
(1)本発表は「ELSIを適切に実施するには「実験臨床社会学」が必要である‐違背実験からの検討」と題しているとおり、エスノメソドロジーのリアリティ理解に基づいて、ELSI(倫理的・法的・社会的課題(Ethical, Legal and Social Issues))を考え直そうというものである。(2)社会が変化をするとき、その変化の方向と内容はあらかじめわからないというべきである。人文科学と社会科学の中で、この問題(社会は計画通りに変えていくことが困難であるという統制の困難問題)にもっとも真摯に立ち向かったのが社会学であり、エスノメソドロジーであった。(3)ガーフィンケルは、多数の「違背実験」を通して、新しい状況に直面した人々が予想外の反応をすること。しかも、多様な反応をすることを我々に示してきた(例:3目並べ、偽カウンセラー実験等々)。(4)これはつまり、現在の思考の範囲が狭められた形でのELSIでは、新しい技術への社会の反応をつかみ損ねているということでもあろう。(5)発表では、人々が世界を合理的なものとして受け入れる際に採用している推論を「演繹的推論」であるものとして、決めつけて検討することをやめて、「帰納的推論」として検討する方向で、上記の「社会のリアリティ」の柔軟性をまずは解説しよう。そのうえで、ELSIには「人々がどのように当該の技術を妥当なものとしてうけいれるのか」という問題を「帰納的推論」の多様な可能性からの実践的選択として考えていくことにしよう。そうすれば、「ELSIを適切に実施するには『実験臨床社会学』が必要だ」という主張ができるようになるだろう。                  

【一般報告5】第2日(9月7日)9:30~12:00 人文学部校舎 第2講義室

                 司会:浅野智彦(東京学芸大学)

文化生産の視座(The Production of Culture Perspective)から文化の測定(Measuring Culture)へ
山内信明(東京大学大学院)
 文化をめぐる社会学の研究は1980年代の文化的転回(cultural turn)を契機に様々な研究を産んだ。特に本報告ではアメリカを中心とする実証研究の中にある文化的転回以前から文化研究の有力な枠組みとして存在していたR.Petersonの「文化生産の視座(The Production of Culture Perspective)」に焦点を当てる。その枠組みがいかに現在の文化社会学(Cultural Sociology/Sociology of Culture)まで続くLiteratureとして系譜を形成してきたのか確認し、「文化の測定(Measuring Culture)」というテーゼに結実に、いかにして実証性の高い研究に水路づけされてきたのか検討する。

現代社会における「ノスタルジア」と自己構成について
津田翔太郎(神戸大学大学院)
 現代社会において、ノスタルジアに関わる心性は、人々が過去の想起をとおして郷愁や帰属感を感じるという文脈のみならず、ノスタルジア・ツーリズムなど、社会的・消費的な現象として広範に流布している。Z・バウマンによると、安定的な社会集団や未来の想定が困難となり、存在論的不安が前景化することによって、ノスタルジアのような「過去志向性」が台頭する。F・デーヴィスの議論や片桐雅隆らの自己物語論の視点からこの心性を検討すると、「現在の私が、(しばしば虚構性を伴った)ノスタルジアに関わる過去の経験を想起することで、現在の私を構成する」という作用が指摘できる。このようなノスタルジアの想起は、ネガティヴな心象を伴う場合もあるが、V・ジャンケレヴィッチの議論を踏まえると、「不確定な未来を見据えた現在の私の存立」にも寄与しうる。このようなノスタルジアは、木村敏や大澤真幸の他者論を参照すると、「他者志向的な心性」として位置づけることができる。

進路選択研究における「文化」の捉え方の再考
──カルチュラル・ソシオロジー的視点から――
周標(東京大学大学院)
 本報告は、下流階層家庭の進路選択研究において用いられてきた「文化」概念の捉え方の再考を通じて、カルチュラル・ソシオロジー的視点からその再構築の可能性を探るものである。現代社会では、社会の流動化にともない、人びとの価値観や意味づけが多様化しており、「文化」を固定的なものとしてではなく、より動態的かつ実践的に捉える必要がある。その一方で、近年、アメリカ社会学におけるカルチュラル・ソシオロジーの議論は、「文化」をより実践行動の側面から捉えることで、文化の観察可能性を高めている(佐藤 2010)。そこで、本報告では、アン・スウィドラー、ミシェル・ラモンらによる「文化」概念の整理を通じて、従来の理論枠組との比較検討を行い、進路選択研究における「文化」概念の再定位を試みる。本報告の試みによって、進路選択における文化的要因を、行為者による文化の受容や意味付けのプロセスとして捉え直す視点を提示し、質的研究でより精緻で動態的な分析が可能となる新たな理論枠組の構築可能性を提示することを目的とする。【参考文献】佐藤成基,2010,「文化社会学の課題―社会の文化理論へ向けて」『社会志林』56(4): 93-126.

予備校における受験技術の商品化
――「市場的配置」の視点から――
藤村達也(奈良女子大学)
 戦後日本における受験競争の大衆化は、教育産業の台頭をもたらし、そうした影響の一つとして入試問題を解くことに特化した受験技術の創出があげられる。本研究の目的は、1970年代以降の予備校において、入試対策に合理化された受験技術が発明され普及した要因を、予備校の構造的とその変化、とりわけ講師が置かれた位置と実践に着目して明らかにする。これにより、教育産業の台頭が受験体制にいかなる影響をもたらしたのかを、受験準備学習という側面から解明することを目的とする。またその際、予備校の教育産業化という変化と捉えるために、ミシェル・カロンによる「市場的配置」の理論を参照する。

勤労所得税額控除についての研究
稲葉年計(東京都立大学)
 「自由選択」型の具体的な改革としては、以下のようなものがあげられる。正規・非正規の格差に関しては、処遇・賃金の同一原則を定め、労働時間の柔軟化や選択制(労働時間貯蓄制度など)を進める。生活保護・失業給付を減らし、給付付税額控除など就労インセンティブを組み込んだ給付を増やす。同時に積極的労働市場政策や生涯教育を手厚くする。民間非営利団体と協力し、民間企業にとどまらない多様な包摂と支援の場を提供する。家族への支援に関しても、公的保育サービス、非営利団体、保育ママ、民間サービスの選択機会を提供し、選択にあわせたきめ細やかな財政支援を行う、などである。これらの政策を実現するためには、先進諸国と比べて最低水準にとどまっている消費税を引き上げることも必要となるだろう(田中拓道 2017, 『福祉政治史』: 276-7)。
 本報告は、以上を背景としながらも、勤労所得税額控除(給付付税額控除)について分析する。提案されている改革には、子供のない世帯向けのより手厚い控除と最低賃金の補完が含まれる。

【一般報告6】第2日(9月7日)9:30~12:00 人文学部校舎 第4講義室

                 司会:樫村愛子(愛知大学)

「ゆるやかな同一性」のもと、つながる
――難病カフェに 集う、異なる病いをもつ人たちの語りからみえるもの――
新井美子(法政大学大学院)
 現代社会において、「病人役割」は依然として強い規範性をもつ一方、病む人たちは多様な社会的役割を担いながら生きている。既存の患者会は「同じ病い」をもつ人たちの集まりであり、運動体やピア・サポートといった側面を担いながら、病む人が社会で生きていくための礎を築いてきた。一方、近年「難病カフェ」という、病いを限定せずに難病当事者が集う活動が全国各地でみられるようになった。筆者が主宰する「難病カフェおむすび(以下「おむすび」)」に参加した3名の難病当事者たちは、患者会の必要性を認めながらも接点を持った際に苦しみや戸惑いを覚えた経験や、病む身体で社会を生きることについて語らう場の存在意義を語った。
 本研究は、病名をもとにした患者会でもなく、病いと切り離された場でもない、難病という「ゆるやかな同一性」のもとに病む人が集う「おむすび」に、難病当事者がいかにつながり、「おむすび」に参加したことが難病当事者にどのような意味をもたらしたのかを明らかにする。

「自己診断」を通して経験される慢性的なこころの病いに関する理論的検討
笹尾珠希(立正大学大学院)
 精神疾患の増加や心理化・心理学化の影響により、個人のこころに対する関心や対処が社会的に要請されるなか、人文・社会科学分野においてもメンタルヘルス不調に関する当事者経験や医療的ケア、セラピー文化、医療者の視座にまつわる研究が増加している。精神的な病いは、診断自体が持つスティグマに加え、情報が錯綜し、診断を得ることが必ずしも治療にはつながらない「不安定な医療化」の影響下にあるため、身体疾患とはまた異なるプロセスを通じて経験されていることが考えられる。そのような「診断」を自明なものとしないこころの不調における、自己決定の状況下に置かれた「病名の獲得」による病いの経験や構築される語りは、医療社会学的視座においてどのように位置づけが可能なのか。臨床的文脈によって権威的な「名づけ」過程の獲得を行わない「名づけない」こころの病い経験を対象に、理論的な検討を行う。

アルヴァックスの失語症理解と「トラウマ」
武内保(早稲田大学大学院)
 本報告では、モーリス・アルヴァックスが『記憶の社会的枠組み』でおこなった失語症についての議論を分析する。アルヴァックスに対してこれまで向けられてきた批判のなかでもとくに見るべきは、彼の記憶理論はトラウマ性記憶などの無意識的な記憶現象の適用外にあるというものである。たしかにアルヴァックスはベルクソンやフロイトを「無意識の状態で記憶が存続するというテーゼ」として批判することをとおして、記憶現象の社会的かつ意識的側面に学問的照明を当てようとした。しかし、『枠組み』の言語活動論、とくに失語症論に注目してみると、アルヴァックスはじつはヘンリー・ヘッドらの神経学的知見を経由することをとおして、「トラウマ」に接近していたことがわかる。失語症の検討をとおしておこなわれる、「わわれわれは記憶が喚起される前に、記憶について話している」というアルヴァックスの言明には、ある種の「トラウマ」論が潜在している。

ポストフェミニズムにおけるケアの不可視化
――社会的再生産フェミニズムの視点から――
伊吹美貴子(日本女子大学)
 新自由主義のもとで、女性は労働市場において「自立」が要請される一方で、フェミニズムの政治は簒奪されている。フェミニズムの意味は、女性個人の人的資本としての主体化と交差し、個人主義的かつ自己実現的なものへと切り詰められている。このような状況は「ポストフェミニズム」と呼ばれ、ジェンダー不平等の問題さえも女性個人の内面の問題として捉えられ、女性は一層の自己投資を促される。
 このポストフェミニズム状況において、既存の男性中心的な権力構造は温存される。そのため、女性がケア責任を持たない男性労働者像をデフォルトとする職場に参入するには、ケアの責任を脱ぎ捨てることが求められる。さらに、旧来のジェンダー役割の引き受けは、自己の再帰的な選択として位置づけられる。このような新自由主義的統治によって、ケアは社会全体においても、女性個人においても不可視化される。
 本報告では、このような女性のポストフェミニズム的主体化に対するオルタナティブとして、「社会的再生産フェミニズム」の可能性を位置づける。

当事者概念の批判的拡張
――客体的当事者概念の構築――
埴生明(北九州市立大学大学院)
 本報告は、2016年の相模原障害者施設殺傷事件を手がかりに、意思疎通能力をめぐる当事者概念の線引きに批判的検討を加えるものである。たとえば上野千鶴子の当事者論は、「クレイム申し立て」を軸に展開することで、言語行為を行い得る主体のみを当事者と認定し、それ以外の存在を排除するという理論的限界を抱える。その構造は、皮肉にも犯行の動機に見られる言語能力の有無による人間の選別と通底しており、支援者のように言語行為が可視化されやすい者を当事者として中心化する効果も併せ持つ。本報告では、こうした構造を批判的に捉え、言語行為以前の存在そのものを基礎に当事者概念を再構成する可能性を探る。そのために、行為に先立つ存在そのものを強調したオブジェクト指向存在論の議論を援用し、行為能力の有無を超えた当事者概念の理論的拡張を試み、当事者に関わる実践に際しての新たな方法的視座の導入を目指す。